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花 桃


 桃の花は、梅の花の清楚な気品には欠けるが、明るいあでやかさは、若く美しい少女を連想させ、誰からも好かれる人気者といえる。
 寒さきびしい季節に、春の先がけとなって咲く梅を、しっかり者で美しい姉にたとえるなら、暖かさを確かめて咲きだす桃は、ほがらかで天真爛漫な妹のよう。

 三月三日は雛の節句。桃の節句といって雛壇に桃の花は欠かせないが、春は名のみでまだまだ肌寒い日が続く。桃の開花は三月下旬が普通。四月中旬まで桜や海棠と美を競って咲き続ける。
 雛祭りに飾る桃は、切り花用に栽培される「矢口」という品種で、温室で促成栽培し、二月下旬から三月上旬に市場に出荷、花屋の店頭に出まわる。
 このゆかしい行事は、ごく最近のことらしく、デパートが雛人形の売りだしに力を入れはじめてからである。

 桃の原産地は中国とされ、この国では古くから桃を五果のひとつに数えて、不老長寿の仙薬とみなし、邪気を払い、魔除けの果実としてきた。『西遊記』の孫悟空は桃の実をたらふく食べたことになっている。
 桃源郷という言葉があるが、東晋時代の太元年中(三七六年頃、ヨーロッパではゲルマン民族の大移動)の書『桃花源記』にこんな伝説が記述されている。
 武陵という所に住む男が、魚をとりに渓流をさかのぼってゆくうちに美しい梅の林に迷いこんだ。そこは太陽が輝き、桃の花びらが舞う仙境で、秦しんの時代に国難を避けてこの地に入ったという人々は、皆美しく親切であった。男は夢のような生活を過ごしていたが、望郷の念にかられ家に戻ると、知人は亡くなって、家はすでに七代を経ていたという。

 桃の日本への渡来は古く、『古事記』の神話にすでに桃が登場している。
 伊邪那岐命が、亡くなった妻の伊邪那美命に会いに黄泉国に行ったが、彼女を見るなとの約束を破って盗み見ると、妻はみにくい姿になっていた。驚いて逃げると、鬼に追いかけられた。比良坂の坂本まで必死で逃げ、そこに生えていた桃の実を投げつけると鬼は退散し、やっとのことで現世に戻ることができた。
 桃太郎の鬼退治も、鬼を払う桃から生まれたからこそできた話なのであろう。

 広島県帝釈峡の縄文時代の発掘調査で、桃の種に穴をあけて中をくり抜いた笛のようなものが出てきた。
 笛には呪性があると信じられていたから、はるか昔から桃は災難を払うものと考えられていたのだろう。
 中国渡来の桃を毛桃、自生の桃を山桃と呼んでいたらしいが、毛桃が実の大きさや味の良さから次第に普及し、毛桃が今でいう桃に変わったという。

 『万葉集』に詠まれた桃の歌は七首しかなく、梅の一一八首にはおよばない。
 けれども、中国の幻想的な概念や、桃の呪性を詠んだ歌はなく、桃の花の愛らしさを素直に詠んでいる。
 大伴家持の次の歌は、桃に寄せる詩的感覚が一幅の絵を見るように描かれている。
 春の苑紅にほふ桃の花下照道に出立姫姫
 春の苑の夕暮れ、桃の花が赤く映える道に出て立つ少女の姿よ。
 家持が奈良の都から越中の国守として赴任してきた時の歌。暗い冬を耐えぬいた北陸の春はひとしおの喜びであったろう。
 都を恋いつつ、異郷暮らしの淋しさもあったが、この年、妻の坂上大嬢も下ってきて、待ちわびた喜びが、このような情景を歌ったのだろう。

 鎌倉には見渡す限りの桃の林は、残念ながらない。梅ほど好まれて植えられた社寺もない。それゆえに、一本でも見かけた時は深く心に残る。
 海棠で知られる安国論寺に、最近知られはじめた桃の木がある。紅と白を咲き分けて、八重の花が四方に枝垂れている。桜や海棠よりひとまわり大きな花は艶麗そのもの。
 一株に紅と白が咲くので「源平」と呼ぶ。安国論寺のは「源平枝垂」といい、鎌倉ではここだけ。
 紅白に咲き分けて枝が上を向く「源平」は、明月院、源氏山公園の一角や白山神社に。白山神社あたりの今泉では、人家の庭や畑に、鄙びた風景の中で源平が咲いている。
 英勝寺仏殿前の鮮紅色の二本は、築地塀越しに華麗な姿を見せ、春の訪れを告げる風物詩。
 明王院、海蔵寺、建長寺、長谷寺も詩情豊かに春を歌っている。
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