▲戻る

さくら


 「世の中は三日みぬ間に桜かな」は大島蓼太の句。
 桜の生命は短い。そろそろ見頃かなと思っている間に、風のなすままに散りしおれてゆく。
 常ならぬ短い命のほとばしりに、人は人間の生と死を重ねあわせて、桜をこよなく愛する。
桜はいつ日本に現れたかは立証することは出来ないが、その名は日本最古の史書『古事記』に出てくる。
 美しくもはかない生命を持った木花咲耶姫が語源といわれる。「木花」は桜を意味し、「咲耶」の音が「サクラ」になったという。
 山の精霊、木花咲耶姫には石のごとく長寿をもたらす霊能を持つ石長姫という姉がいた。はじめ邇邇芸命の妃に姉が選れたが、彼女は見るも無残な醜女だったので妹のほうが妃になった。
 移ろいの美を愛する日本人の心の源は、このあたりにあるのだろうか。

古来、日本人と桜との関わりは深かった。その美しさもさることながら、桜の開花で秋の豊饒を占っていた。
 いつまでも咲きつづけてほしいと、桜の下で歌ったり踊ったりして豊作を祈った。桜の宴の始まりは、古代の豊耕季節祭にある。

奈良時代、、花といえば梅であった。『万葉集』には中国渡来の梅がもてはやされ、一一八首もの梅が詠われた、桜はわずか四四首。
 九世紀末、日本は十数回にわたった遣唐使を止めて以来、平安時代には国風文化が到来し、桜に対する一般の認識が再びとりもどされる。
「左近の梅、右近の橘」で有名な平安京の紫宸殿の梅が、吉野山から運ばれた桜に植え替えられ、現在にいたっている。
『古今集』では、梅はわずかに一八首、桜は七〇首と逆転した。嗜好が移り変わったのである。
「世の中に絶えて桜のなかりせ
 ば 春の心はのどけからまし」
 平安前期の歌人、在原業平の残した歌。

桜といえば、段葛を花のトンネルに変える染井吉野を思い浮かべるが、これは明治初期に東京染井の竹中という植木屋からデビューした品種。一躍人気を得て全国に広まった。
 はじめは吉野桜の名だったが、大和の吉野山にある山桜とまぎらわしいので、発祥地の名をとって染井吉野に変えた。
 その後、伊豆半島の江戸彼岸と大島桜の自然交配種が染井の植木屋に運びこまれたことが遺伝的に確認された。

木花咲耶姫から、花は桜木、人は武士。貴様と俺とは同期の桜。みごと散りましょ、国のため。などその時代、時代に桜は特別の意識を持って愛でられてきた。
 明治以降、先の大戦までは桜は軍人精神、大和魂のシンボルとされていた。散りゆく様に「潔さの美」を見、これが日本人の感性を象徴するものとして、数々の悲惨な結果をもたらした。

海をとりまく山々の、今まで気にもとめなかったところに、山桜が咲く。あちらの尾根、こちらの谷戸を、わずかな時を彩って緑の中に滲みこんでゆく。
 戦前までは木炭材用に植えられた木が多かったのである。派手さはないが、山育ちの素朴な風情が町中から見られるのは、ここ鎌倉だけのものになった。
 ちなみに鎌倉の木は山桜である。万葉びとが見たのも山桜であった。

ベスト・エイトは段葛、建長寺、半僧坊、円覚寺、、源氏山公園、鎌倉山、長勝寺、光明寺。
 もうひとつの味わい深い名所は、散在ケ池、報国寺、浄妙寺、明王院、光触寺、鎌倉逗子ハイランド、鎌倉霊園、妙本寺、極楽寺など。
 段[は土の感触を味わいながら花のトンネルのプロムナード。
 昭和のはじめ頃は、今よりもっと大木で、人力車や二頭馬車の肩先に触れるほど枝が垂れていた。枝先には麻紐が束ねて結ばれていたという。
 鼻緒が切れた人への心遣いであった。
▲花一覧に戻る